「君たちはどう生きるか」の感想
前書き
事前情報が全くでないという前代未聞のマーケティング(?)とともに公開された宮崎駿監督の最新作「君たちはどう生きるか」を公開日の2日後に観に行ったので,その感想について述べていきたいと思います。ちなみに,考察っぽい部分もあるのですが,別に宮崎駿監督のファンでもジブリマニアでもないので,確度としてはそこまで高くないと思います。
ネタバレが十二分に含まれているので閲覧は自己責任でお願いします。
間違ってネタバレを観ないようにするためのバッファ
観に行ったのは7/16(日)の昼で,全国的に猛暑の日でした。友人に誘われての映画鑑賞だったので,見終わった後に感想を共有したいと思ったのですが,さすがに公開から2日しか経っていないので街の中で堂々と話すわけにいかない。そう思って近くのカラオケに入ったのですが,なんと外は晴れているにもかかわらずどこも予約すら取れないほど満室でした。
「こんなに晴れてるんだから外で遊べよ」と思ったのですが,よく考えたら暑すぎて室内に入りたい人が多かったんでしょうね。受付を門前払いされた僕と友人は,目的地を思案していました。するとどうでしょう。目的地を決めるよりも先に友人が暑さでめげてしまいました。なるほど,小学生のころから野球をやり続けてきた自分にとっては暑いといっても十分耐えられるものだったのですが,普通の人にとっては相当な暑さだったようですね。
ちなみに暑さに強いのは僕だけでなく家族がそういうものらしく,次の日は海の日でこの日もまた猛暑だったのです。ところが遊びに来ていた妹と母親とともに,「暇だから」という理由だけでクーラーの効いた家を飛び出し,県立公園のアスレチックをしに行くという大胆な休日を過ごしました。夏の祝日なんて,アスレチックなんか子供であふれかえっててもよさそうですが,親子連れを一組見た程度で閑散としていました(そのおかげで大の大人がアスレチックやってても白い目で見られなかったわけで)。これも時代の流れというものなのでしょうかね。
全体を通しての感想
もしかしたらバッファ部分が面白くてここまで読み進めてきてしまったもの好きの方がいるかもしれないのでもう一度注意書きしておきますが,ここからは自己責任でお願いします。
僕はこの映画を見て,宮崎駿監督からの「俺はこう生きた。君たちはどう生きる?」といったメッセージがあるのかなと思いました。青鷺とはいったい何なのか,宇宙から来た塔は?ジブリは現実とファンタジーを混ぜた世界観が共通してあるので,大叔父が作った世界が登場する分にはいいとしても,あまりにも説明がなさすぎる。僕はこの一点の疑問をもってしてこの映画は宮崎駿監督の人生を表しているのではないかと考えました。
まあ,根拠としては弱いと思いますが,一応この考察に沿っていろいろ妄想してみます。
母方の実家への引っ越し
物語の冒頭は母を火事で亡くした後,母方の実家にお世話になる場面から始まります。これはおそらく宮崎駿監督が幼少期に宇都宮に疎開したことと対応しているのではないだろうか。実際Wikipediaによればどうも父親は宮崎航空機製作所に勤めていたらしく,眞人の父も戦闘機の部品を作る工場で働いている描写があった(ちなみに宮崎駿監督のことを調べるのは人生で初なので,大体のことはWikipediaをみて書いていく)。つまり,疎開先で感じたこと,経験したことが宮崎駿監督の原体験になっており,それをそのまま投影したのが今回の映画であると考えている。
夏子との再婚
再婚するのかどうかは実際は語られてはいないが,少なくとも眞人の父の子を身ごもっている描写はあった。物語を通して,最初は『夏子さん』と呼んでいた眞人が,大叔父の作った世界の中で『お母さん』と呼ぶシーンがあったため,【実母ではない継母をお母さんと呼ぶのに抵抗がある少年が,徐々に心を開いていく】といった大きなテーマがあるように感じられる。
が,僕はそれを,「単に物語をまとめるための道具にすぎない」と考えている。なぜなら,描写があまりにも分かりやすすぎるから。大叔父が作り出した世界を持ち出しても,(ジブリ映画の文脈で)違和感のないようにするための道具というわけである。
ちなみに,Wikipediaには宮崎駿監督は両親が死別し,再婚したという情報は載っていない。
大叔父が作った世界と積み木
これは宮崎駿監督自身の精神世界に対応しているものではないかと考える。もう少し具体的に言えば,疎開中に宮崎駿監督が考えていたことが反映されているのではないだろうか。大叔父は積み木を用いて世界のバランスを取ろうとしていた。そして,積み木というのは名だけで,石でできているらしい。
つまり,そのまま解釈すれば,「意志の積み重ねによって世界のバランスが取れる」ということになる。世界とは宮崎駿監督の精神世界だという解釈であるので,戦時中であり疎開中の宮崎駿監督は精神が不安定であった(安らげる場所がなかった)ことを示しているのではないか。そんな中で見つけた「バランスを取る方法」が自らのちょっとした意志を,それも正しい意志を積み上げていくことこそが重要だという結論に至ったのではないかと考える。
「そのまま解釈すれば」と言っておきながら「石」を「意志」に勝手に読み替えているが,これにも一応根拠がある。作中では「石は歓迎していない」などといった「石に意志があるかのような」表現がされている。ジブリらしい表現と行ってしまえばそれまでだが,大叔父が眞人を試すべく,「正しくない」石を持ってきた際に眞人が言った,「その石からは悪意を感じる。墓石と同じ。」というようなセリフがある。このセリフからも石と意志(悪意)のダブルミーニングが見て取れる。また,もし「正しくない」石を積んでバランスを取った場合,それは「墓石によって世界のバランスを取っている状態」=「誰かの犠牲のもとに自分の世界が成り立っている状態」であり,宮崎駿監督がそれを良しとしないと決めたことを示しているのではないかと考えられる。
キミコ・ヒミと眞人の考え方の違い
ここからは自分もよくわかってないが,疑問に思ったことを書いていこうと思う。
話は少し戻るが,大叔父の世界に入ってキミコが住んでいる廃船からわらわらが飛び立つときシーン。このとき一部のわらわらはペリカンに食べられてしまうが,ヒミが火によってペリカンを追い払う。この時,ヒミが使う火がわらわらをも燃やしてしまっているが,キミコとヒミはそれを意に介さない一方で,眞人だけが止めろと叫んでいる。これは「目的が達成できるなら多少の犠牲は厭わない」考えと,「そのために守るべきものが犠牲になるのはおかしい」という考えの葛藤を表しているようにも思える。眞人が止めろと叫んだ後も,ヒミはペリカンがいなくなるまで火を出し続け,キリコも眞人の叫びに何らかの反応をすることすらなかった。これは宮崎駿監督自身が当時感じた命題の一つでありながら,未だ答えの出ていない問いなのではないかと考える。
ちなみにWikipediaには,こんな話が引用されている。
宮崎が回想した戦争体験としては、宇都宮が空襲を受け、親類の運転するトラックで4歳の駿を含む宮崎一家が避難した際、子供を抱えた近所の男性が「助けてください」と駆け寄ってきた。しかし、トラックは既に宮崎の家族でいっぱい。車はそのまま走り出した。その時に「乗せてあげて」と叫べなかった事が重い負い目となって、後々の人生や作品に大きく影響を与えた、と語っている宮崎駿「アニメーション罷り通る」(大泉実成『宮崎駿の原点――母と子の物語』潮出版社、2002年、pp.24-28))
宮崎駿 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
青鷺の存在
結局のところ青鷺とは何なのか。これはもう一人の自分,あるいは内なる自分,特に不安に対応するものではないかと考える。眞人が行方不明になった夏子を探しに塔に向かった際,「お待ちしておりました」と青鷺に言われたにもかかわらず,隣にいたキリコはその声が聞こえないと言っていた。また,屋敷の家系の者しか聞こえないとも言っており,また,塔に「連れていかれる」というような表現もあったことから,宮崎駿監督の家系は不安に囚われてしまいやすい傾向があったのではないかと考える。少なくとも本人にはそのような自覚があったのではないだろうか。
一方で,物語が進むにつれて青鷺と力を合わせるシーンや,「友達」と明言するシーンもあった。これは不安を「飼い慣らす」ことに相当しているのではないだろうか。そう思うとインコやペリカンなどの鳥が出てきたのは,そういった感情のコントロールを表現しているようにも思えてくる。
過去につながる扉
最終的にキリコとヒミは大叔父の世界から過去の世界に戻っていった。逆に言えば大叔父の世界は過去に戻ることもできるというわけだ。一方で,未来に関する描写はなかった。
すなわちこれは記憶に対応しているものだと考えられる。記憶を通してのみ現在の経験が形作られるというテーマがあるようにも見える。つまり,この映画が宮崎駿監督の経験そのものであるということだ。さすがに言いすぎか。言いすぎだな。
過去があって未来がない=記憶という図式は合ってそうなんだけどな・・・
自分でけがをした眞人
これはそのままの体験ではないにしろ,宮崎駿監督自身に卑怯なところがあるということを描写したかったのだろう。実際,大叔父にも「自分にはバランスを取ることは出来ない」と言っているところからもそれが伺える。
ちなみにこのシーンを観ているとき,「ああ,喧嘩に勝っちゃったから,父親の立場を悪くしないようにわざと怪我をしたんだな」と思ったのだが考えすぎだったかもしれない。
後書き
つらつら書いたが,この映画のメッセージが「俺はこう生きた。君たちはどう生きる?」であるという立場をとると,いいことがある。
それは,この映画を観て出てくる感想は全て,「あなたはそう生きたんですね」と返せることだ。 明確なテーマがない映画(という立場だから)を観て何かを思うためには,自分の経験や知識に照らし合わせなければならない。すなわち,感想や着眼点にはその人の生き方や信念が現れてくる。
もし,この感想を読んで何か違うなとかこいつ間違ってるなと思ったら,「あなたはそう生きたんですね」とだけ言ってあげてください。